どうも。南弘一です。千原台高校の校長をしています。とともに、地元熊本でサッカー解説の仕事もしています。
ウィーン!ウィーン!ウィーン!
22日午前1時08分、携帯電話のアラーム音が鳴り響きました。
今から5年9か月前、熊本地震の直後に、度々耳にしていた音です。
夜の10時にベッドに入り、熟睡していた私もさすがに目が覚めました。
しかし、すぐには揺れを感じません。
先日、
「神奈川県で、誤作動により、600回以上のアラーム鳴動があった。」
というニュースを目にしていたので、
「うん? これも誤作動か?」
と思った次の瞬間、大きな揺れに襲われました。
熊本地震で感じたのと同じような大きな揺れです。
とりあえず、私が寝ているベッドの周りには倒れて来そうな建具などはないので、そのままベッドでしばらく横になっていました。
その間に蘇ってきたのは、今から5年9か月前の4月14日、16日に経験した熊本地震の記憶です。
特に、後に「本震」と言われることになる2016年4月16日午前1時45分に熊本を襲った震度6強の大きな揺れは、今回と時間帯もほぼ同じでした。
当時、熊本市内の中学校の教頭をしていた私。
その夜は、前日に起こった、後に「前震」と言われる地震のために、中学校の体育館(正確には体育館の2階にあった武道場)に避難していた地元住民の方々がおられたため、学校の責任者として学校にとどまり、校長室のソファーで仮眠をとっていました。
大きな揺れに目覚めると、校長室のキャビネットやついたては倒れ、トロフィーなどは散乱しています。
避難している人たちのためにつけておいた運動場の照明灯も停電で消えており、あたりは真っ暗。
私の頭に一番に浮かんだのは、
「校舎に閉じ込められたら、まずい。」
「まず、外に出よう!」
という考えでした。
足元に置いていた小さいショルダーバッグを斜めにかけて、すぐに運動場に飛び出しました。
武道場に避難者とともにおられた市役所職員の方が、私の姿を見つけ、
「教頭先生、どうすればいいですか?」
と叫ばれました。
「まずは、全員、運動場の真ん中に避難しましょう。歩ける方は、運動場に誘導してください。歩けない方は、私が背負いますので。すぐにそちらに行きます。」
と叫んで、武道場に駆けつけました。
避難者は、約30名。中には、お年寄りもおられました。
おばあちゃんを背負って、3往復くらいして、ようやく運動場の真ん中への避難が済みました。
すると、その瞬間に、ぱっと運動場の照明灯がつきました。どうやら停電が復旧したようです。
あとから思うと、この時に電気だけは復旧したことは、本当に助かりました。
「暗さ」は、人に恐怖感を与えます。「暗さの恐怖」からだけは、解放されたからです。
「皆さん安心してください。学校の建物は、『耐震工事』が完了していますので、倒壊するようなことはありません。」
「ただ、このあとにも『余震』が来る可能性がありますので、ここに、腰を下ろしておきましょう。特にお年をめした方は、揺れで倒れてケガをされてはいけませんので。」
「サッカー部室に、青いビールシートがあるはずですので、今からそれをここに敷きます。お若い方は、お手伝いをお願いします。」
こうやって、ビニールシートを準備し始めると、運動場の照明灯を目指して次々に地元の住民の方々が避難してこられました。
この夜、その中学校に避難された方々の数は、およそ3000人。
ここから、約50日間に及ぶ避難所運営生活が始まりました。
この時の様子を話し始めると長くなるので、それは、また次の機会に。
ということで、話は昨夜に戻ります。
ベッドの中で、とりあえず余震が来ないことを確認した私は、リビングに行ってみました。
そこにいたのは、妻と4人いる子どもたちの中でただ一人、今も同居している女子大生の末娘でした。
たまたま、今、震源地に近い大分市に滞在していた姉とLINE通話中でした。
恐怖を感じていたはずの二人が、私の姿をみると同時に大爆笑!
「何?」
と聞くと、
「お父さんの髪の毛、大爆発しとるよ!パイナップルみたい!」
と言われ、いささか気分を害した私は、
「○○ちゃん(大分滞在の娘)も大丈夫とよね?」
「うん。熊本地震くらいの揺れを感じたみたいだけど、大丈夫。」
と確認したところで、
「寝る。」
と言い残し、リビングから寝室へ。再びベッドに戻り、朝まで熟睡しました。
朝の報道をみると、今のところ、今回の地震で大きな「人的被害」は出ていないようでホッとしています。
ただ、今後の「余震」も予想されますので、中止して過ごしていきましょう。
今日も最後までお付き合いいただきありがとうございました。
今日一日が、皆さんにとって素敵な一日になりますように。