YouTuber校長日記

YouTuber校長として、サッカー解説者として日々の生活の中で感じたことや本を読んで学んだことなどを書きます!

知の越境法 池上彰著(光文社新書)に学ぶ!(中編)

どうも。南弘一です。千原台高校の校長をしています。とともに、地元熊本でサッカー解説の仕事もしています。

今日のブログのタイトルは、「知の越境法 池上彰著(光文社新書)に学ぶ!(中編)」です。

この本には、池上さんが様々なキャリアを「越境」する中で、何をどのようにして学んできたかということが書かれています。

池上さんの人生を「棚卸し」した本とも言えます、

ということで、今日の(中編)からは、私自身の人生を「棚卸し」してみたいと思います。

私が社会人の第一歩を踏み出したのは、熊本県下益城郡不知火町立(現在は宇城市立)不知火小学校でした。

学校から2,3キロ行くとそこは有明海。柑橘類の栽培などが盛んないわゆる「郡部の学校」でした。

そこで、4年生の担任として教師生活をスタートしました。

大学では保健体育科に属し、「中学校教員養成コース」だった私は、教育実習もほとんどが中学校。

小学校には熊本大学付属小学校に2週間いっただけ。しかも、授業の経験は「体育」と「水泳」をそれぞれ1時間しただけという状態での小学校への赴任です。

4年生は2クラスしかなく、あと1クラスの担任の先生は、当時40代の半ばくらいの女性の先生で、とても大人しい性格の方でした。

右も左もわからない私は、何でもかんでもその先生に、

「これはどうすればいいですか?」

と聞いていました。

最初は、優しく

「ああすればいいですよ。こうすればいいですよ。」

と教えてくれていたのですが、ある日、

「先生のお考えで…」

と言われてしまいました。

当時の私は、

「わからないから聞いているのに…」

と寂しさを感じましたが、今思えば「当然の指摘」です。

子どもたちからみれば、ベテランだろうが新米だろうが、担任の先生は一人だけ(現在はチーム担任制にしている学校もありますが)であり、自分の考えのない先生に担任をされている子どもたちは不幸としか言いようがありません。

ただ、それでもわからないことだらけだった私は、校内、校外で接せる様々な先輩の先生方にアドバイスを求め続けました。

こうして、スタートした「小学校教員生活」は15年間続きました。

この15年で、その後の私の大きな力になったのは、

「授業力を高めるための研修」と「熊本県教員蹴友団でのサッカー選手、監督としての活動」の二つです。

アドバイスを求めた先輩たちから一番多く聞いた言葉は、

「教師は授業で勝負!」

という言葉でした。

先輩の先生に誘われて「教育論文を書く会」という自主サークルで学んだり、「体育サークル」という小学校の体育の授業について学ぶサークルに参加したり、そこの代表を務めたりしました。

「教育論文」は初任依頼10年間、毎年書き続けました。内容は専門教科の体育だけではなく国語や図工、総合的な学習などの論文も書きました。

また、体育の授業研究については、教育雑誌から原稿の依頼をいただき執筆しているうちに、本の出版のご依頼をいただき「サッカーの習熟過程(明治図書)」を出版しました。

この間に学んだ「授業力」は、その後の私の教師人生の中での貴重な「基礎体力」となりました。

そして、2002年、36歳の時に小学校から中学校に移ることになりました。

私の社会人としての最初の大きな「越境」です。

中学校の教師として最初に赴任したのは、熊本市立三和中学校でした。

そもそも、なぜ私が中学校に移ることになったのか?

それは、私の転勤希望に端を発するのですが、私の希望は実は「高校への転勤」でした。

当時、熊本教員団での選手生活を終え、監督を務めていましたが、監督として「九州リーグからの降格」と「九州リーグへの昇格」を経験し、そろそろ後輩に監督の座を譲るべき時が来ていると感じていました。

そこで、私の胸に沸き上がったのが「高校サッカーの舞台で勝負してみたい!」という熱い思いだったのです。

しかし、その思いはかないませんでいた。

「中学校から高校への異動は前例があるが、小学校から高校への異動は前例がない。しばらく、中学校で経験を積んでほしい。」

というのが、その時の私に伝えられた言葉でした。

こうして中学校教師としての生活がスタートするのですが…

この続きは、明日の(後編)でお話ししますね。

今日も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

今日一日があなたにとって素敵な一日になりますように。