どうも。南弘一です。千原台高校の校長をしています。とともに、地元熊本でサッカー解説の仕事もしています。
さて、日本のプロ野球界では、日本ハムの新監督に新庄剛志氏が就任することが決まり、大きな話題となっています。
新庄さんと言えば、選手時代には、試合前後の数々のパフォーマンスでファンを喜ばせたり、阪神時代には、敬遠の球を打って、さよならヒットを放つなど、実力はもちろんのことエンターテイメント性でも注目を集めた選手でした。
また、現役引退後も数々のバラエティー番組に出演し、タレントとして活躍したり、整形手術を繰り返したことを公言したりして注目を集めました。
「そんな彼が監督としてやっていけるのか?」
という不安視する意見もあると思いますが、私は、
「監督として成功する可能性は十分ある。」
と思っています。
今日は、「監督」という仕事に対する私の考えをお話しします。
世の中には様々な「仕事」がありますが、その中でスポーツチームの「監督」というのは、最もやりがいのある仕事の一つであると思っています。
幸せなことに、私は、教師という仕事を選び、私が現役の教師として仕事をした時代は「部活動」を盛んに行うことが出来た時代だったことにより、様々なスポーツチームの「監督」を経験することが出来ました。
はじめて、「監督」を経験したのは25歳の頃でした。
22歳で大学を卒業し、小学校の教師となり、1年目からサッカー部の担当者になりましたが、最初の2年間は先輩の先生が「監督」をされていました。
3年目に転勤した小学校ではじめて「監督」を経験することになります。
そのチームは、「豊川少年サッカークラブ」。私が小学生の頃から、熊本県内有数の強豪チームでした。(ちなみに、大津高校サッカー部総監督の平岡和徳さんは、このチームのご出身です。)
目を輝かせてサッカーボールを追う子どもたち、サッカーへの関心が高く、とても協力的な保護者の皆さんに囲まれ、幸せな1年間を過ごしました。
残念ながら,異動の制度上、豊川小学校には一年間しか勤務することが出来ず、次に赴任したのは泗水小学校でした。
豊川小学校とは対照的に、泗水小学校には、当時、まだサッカー部はありませんでした。
そのことを知り、
「ここでは、サッカー部の監督は出来ないんだ。」
と落胆していたところ、当時の校長先生から校長室に呼ばれ、
「ここには、サッカー部は、なかつばってん、男子の元気もんがたくさんおるけん、あたがサッカー部ば、作ってくれんな。(ここには、サッカー部はないんだけど、元気な男子がたくさんいるので、あなたがサッカー部を立ち上げてくれないか。)」
と言われ、
「もちろんやります!」
と即答。異動して1年目にサッカー部を立ち上げて、「泗水小学校サッカークラブ」の「初代監督」となりました。
この頃は、「とにかく少しでも強いチームを作りたい」という気持ちが前面に出ていて、今でも付き合いのある当時の選手たちに話を聞くと、
「南先生、めちゃくちゃ怖かったですよ。」
と言われます。「若さ」と「経験主義」のもとで突っ走っていた時代でした。
そこで5年間を過ごし、次に異動となったのは、菊陽中部小学校でした。
年齢も30歳となり、選手としてプレーしていた熊本教員団でも「ベテラン」と言われるようになっていました。また、少しづつ「指導者としての勉強」を始めた時期でもありました。
「クーバーコーチングメソッド(個人技術に焦点をあてた指導法)」と出会い、「チームの勝利とともに、個の育成を目指すべき」と考え始めたのは、この頃でした。
この当時、「菊陽中部小学校サッカークラブ」に在籍していた「教え子」が矢野大輔さん(G大阪ーサガン鳥栖ーロアッソ熊本でプレーした元Jリーガー)です。
ここで、3年間監督を務め、月出小学校に異動となります。ここでも、「月出小学校サッカークラブ」の「監督」を務めます。
ただ、この時代には、私のその後の「サッカー指導者人生」に大きな影響を与える2つの出来事がありました。
一つは、社会人サッカーチーム「熊本教員団」の「監督」への就任です。
もう一つは、「日本サッカー協会公認B級ライセンス」の取得です。
社会人チームでの「監督経験」と、本格的に指導者としての勉強が出来た「B級ライセンス取得」をこの時期に経験できたことは、本当に幸せでした。
というところで、かなりの字数になりましたので、この続きは「後編」でお話ししたいと思います。
今日は、J3リーグ第25節、ロアッソ熊本対鹿児島ユナイテッドの試合が行われます。
明日のブログでは、この試合についてお話ししますので、「監督に関する一考察(後編)」は、明後日のブログでお話しします。ご了承ください。
今日も最後までお付き合いいただきありがとうございました。
今日一日が、皆さんにとって素敵な日曜日となりますように。