どうも。南弘一です。千原台高校の校長をしています。とともに、地元熊本でサッカー解説の仕事もしています。
そのサッカー解説の仕事のほとんどは、地元のJリーグチームである「ロアッソ熊本」のホームゲームでのラジオ解説のお仕事です。
今日は、そんな「ロアッソ熊本」にとっての「運命の一日」となります。
今日、12月5日(日)午後2時より、ロアッソのホーム・えがお健康スタジアムで行われるJ3リーグ最終節・ロアッソ熊本対FC岐阜戦に勝利すれば、悲願の4年ぶりの「J2昇格」が決まります。
そこで、今日は「私とロアッソ熊本」と題して、ロアッソ熊本の「歴史」を振り返りたいと思います。
ロアッソ熊本の母体となったのは、1969年に創部され、その後、熊本県リーグ、九州リーグで活動した「NTT熊本」です。その後、JFL(日本サッカーリーグ)に昇格し、チーム名を「アルエット熊本」と変更し、現在の「ロアッソ熊本」となりました。
「NTT熊本」は、私が、選手、監督として活動した「熊本県教員蹴友団(以下、教員団)」とは、九州リーグでともに戦う「ライバルチーム」でした。
そして、この2チームが「熊本県社会人チームの2強」として、長年覇権を争っていました。
2004年9月「『熊本にJリーグチームを』県民推進本部」が発足し、「アルエット熊本」を母体としたプロサッカークラブを設立する方針を決定。
2004年12月に(株)アスリートクラブ熊本(以下、AC熊本)を設立し、2005年2月に「ロッソ熊本」が発足しました。その後、2008年に商標の問題から「ロアッソ熊本」へと改称しています。
この当時、私は中学校の保健体育教師として、自分が働く中学校でサッカー部の監督をするとともに、「トレセンコーチ」としても活動していました。
当時、私と一緒に「トレセンコーチ」として活動していた仲間たちのほとんどは、「教員団」で、私の前に選手、監督を務められた先輩たちや一緒にプレーした後輩たちでした。
「プロチーム設立」となれば、当然、「下部組織」として「ジュニア(小学生)、ジュニアユース(中学生)、ユース(高校生)」のチームも発足することになります。
そのことによる波紋に対する不安もあり、「慎重論」もありました。
もちろん、私もこのことによる変化に対する不安がなかったわけではないのですが、それよりも、
「自分たちの町に『Jクラブ』が出来て、毎週末に声援を送ることが出来る。そんな未来って、ワクワクすると思いませんか!」
と言う意見を言っていたことを思いだします。
そして、私の「今」では、そんな「未来」が実現しています。
2005年、「ロッソ熊本」は、九州リーグから戦いをスタートします。そして、優勝し、1年で九州リーグからJFLへと昇格しました。
当時、私は「教員団」の監督をしていたのがですが、2005年は、熊本県リーグに降格してしまっていて、熊本県1部リーグで戦っていたので、残念ながら「監督」として、「ロッソ熊本」と戦うことは出来ませんでした。
そして、チームは2008年に「悲願のJ2昇格」を果たし、熊本県でただ一つの「Jクラブ」となりました。
2008年のホーム最終戦の布陣は次のようになっていました。
GK 小林弘記
FW 高橋泰
懐かしい名前がいっぱいです。
その中でも、DF矢野大輔は、私が「菊陽中部小学校サッカー部」の監督時代の教え子であり、「トレセン活動」ではなく、「部活動」で指導した選手として、唯一、プロ選手として活躍してくれた選手です。
そんなこともあり、この頃から、いち「ロアッソサポーター」として、時々、スタジアムに足を運ぶようになりました。
語り始めると止まらくなりますが、続きは、またの機会にお話ししますね。
そんな「ロアッソ熊本」の大一番が今日、行われます。
私もラジオの解説者として「参戦」します。
一人でも多くの熊本県民の皆さんにスタジアムに足を運んでもらいたいと思います。
私も12時過ぎには、スタグルに行きます。スタグルでお会いしましょう!
今日も最後までお付き合いいただきありがとうございました。
今日一日が、皆さんにとって、そして、ロアッソ熊本にとって、素敵な一日になりますように。