YouTuber校長日記

YouTuber校長として、サッカー解説者として日々の生活の中で感じたことや本を読んで学んだことなどを書きます!

 熊本地震から6年 蘇るあの日の記憶…(その1)

どうも。南弘一です。千原台高校の校長をしています。とともに、地元熊本でサッカー解説の仕事もしています。

6年前の昨日、4月14日は、今年と同じ木曜日でした。

2016年4月14日21時26分。マグニチュード6,5、最大震度7の大地震が私の住んでいる熊本を襲いました。

今日のブログでは、その6年前の記憶をたどってみたいと思います。

当時、私は熊本市立京陵中学校の教頭。

翌日の4月15日㈮には、年度初めの授業参観が予定されており、放課後には新任の先生が授業参観に備えて模擬授業に臨み、数人の先輩教師たちとともにそれに参加し、その後、校舎の戸締りをして帰宅の途に就いたのが、午後9時過ぎでした。

そして、帰宅途中に尋常ではない大きな揺れに襲われ、私はすぐに学校に戻ります。

学校には、8名の教師がまだ残っていました。

京陵中には2つの職員室があります。そのそれぞれにいた先生たちに、

「まずは、運動場に集まりましょう。」

と声をかけ、

「けがはありませんか?」

「はい。大丈夫です。ただ、職員室の中はいろんな物が倒れてぐちゃぐちゃです。」

「わかりました。ただ、余震が来ることもあるので片付けなどは明日以降にしましょう。」

「まずは、皆さんご自宅に連絡をしてみてください。そして、学校に残っても大丈夫な方は私と一緒に学校に残ってほしいと思います。」

学校の施設は、様々な自然災害が起きた時には「避難所」となります。

教頭になって以来、「台風接近」という情報により避難者が学校に来られた時にも数回対応をしていたので、この時も間もなく避難者の方が来られることを予想しました。

私も大きな揺れの直後に自宅に連絡をとり、幸いにして全員無事であり、家屋にも大きな被害はないことを確認して学校に戻っていました。

結果的に私と3人の先生が残ることになり、まだ新婚で奥様と2人暮らしをしていた先生は奥様を学校に呼んでくれました。

そうしているうちに、私たち以外にも学校に人が残っていたことに気付きます。

それは、体育館の「夜間開放」を利用してバドミントンを楽しんでいた地域の人たちでした。プレーを終えて、体育館にモップをかけて帰宅しようとしていたところに大きな揺れが襲ったということでした。

体育館に行ってみると、体育館の照明灯はすべて床に落ちて粉々になっています。

もし、この地震があと少しだけ早い時間に起こりプレー中やモップかけの最中だったら…

想像しただけで怖くなりました。

わずかな時間のずれにより、幸いにけが人は出ていませんでした。

その方たちは、皆さん一度自宅の様子をみたいということで帰宅し、入れ替わるように学校に避難してくる人たちの姿が見え始めます。

「まずは、サッカー部の部室からブルーシートを持ってきて、運動場の真ん中に敷きましょう。」

「あと、武道場には柔道の授業で使っている畳を敷きましょう。」

「本校舎一階の3教室も開放したいと思います。教室のカギを開けて電気をつけておいてください。」

「避難者の方の名簿を作っておきたいので、職員室か事務室からノートと筆記用具をとってきてください。」

私の指示により、4名の臨時避難所職員(先生たちとその奥様)がそれぞれの任務に動き出しました。

そして、私は避難してこられた方々に、

「京陵中の教頭です。これから避難場所についてのご説明をしますので、お集まりください!」

と大声で叫び、避難者の方たちに運動場の真ん中に集まってもらいました。

「皆さん、お怪我はなかったでしょうか。ご自宅はたぶんお休みになれない状態でお集まりのことだと思いますので、今夜は学校を避難所と解放します。

 開放する場所は、3ヶ所です。

 1ヶ所目は『武道場』です。体育館の2階にあります。ここには柔道の授業で使う畳をしいています。ただ、場所が体育館の2階ですので、今も時折感じる余震の揺れは大きく感じることが予想されます。

 2ヶ所目は『本校舎1階の3教室』です。こちらは耐震工事を終えている本校舎の1階にありますので、武道場ほどの揺れは感じないと思いますが、教室にあるのは机と椅子のみです。

 3ヶ所目は、この運動場の『ブルーシートの上』ということになります。余震の恐怖を一番感じずに済むのはここだと思います。

 この3ヶ所の中のどこで過ごすかを決めていただき、それぞれの場所に受付名簿を用意しておりますので、そちらにご記入の上でお休みください。」

このように説明をしました。

もちろんその当時、熊本がこのような大きな地震に襲われるなど予想だにしていませんでしたので「マニュアル」などはありません。すべて私が思いついたことで指示を出しました。

そうこうしているうちに、当時の校長先生がタクシーでご自宅から駆けつけられました。

ここまでの状況を報告をすると、

「教頭先生、ありがとう。私ももちろん学校に泊まるけど、避難者への指示などはすべて教頭先生に任せるんで、私の承認をとる必要はないよ。責任は私がとるので。」(その時の言葉は熊本弁でしたが、標準語に翻訳しています。)

とおしゃっり、私に避難所運営の全権を委譲していただきました。

その日の夜に京陵中学校に避難してきた方々は100名を超えるくらいでした。

その方々とともに学校で一夜を過ごし、夜明けを迎え、

「ようやく、避難所としての仕事も終わりだな…」

とほっとしたのですが…

この続きは、後日、お話ししていきたいと思います。

今日も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

今日一日が、あなたにとって素敵な一日になりますように。